『南瓜とマヨネーズ』を読んで「自己犠牲的に尽くす女性」が賞賛された世界に生まれたダメンズウォーカーは救われないと思わずにはいられなかった。

女性が輝く社会

アベノミクス成長戦略に「女性が輝く社会」が掲げられて、いくつかの具体的政策目標も示されていることはみなさんもご存知のことだとは思いますが、しかし今日、その成果ははたして社会にちゃんと反映されているのか?という点については甚だ疑問だと思っているのもきっと皆同じでしょう。

 

社会に出ようとし、もしくは社会にしっかり出たものの、少し他の人と違ったことをすれば「女なのに生意気だな」「女なのに..」と差別的なことを言われる人も後を立たない様子。こんな悪しき思想や慣習が残っているような会社がたくさんあるのであれば、まだまだ険しい道であることは容易に想像できます。これに少しばかり関連しますが、ちょうどここ数日、はあちゅう女史が電通の著名クリエイターのセクハラとパワハラを証言してネット界隈では今炎上しかけていますよね。

 

 

 

こんなことを書きたくてこの記事を書いているわけではないのですが、時事的にちょうど良い題材だったので取り上げてみました。本記事は掲題通り『南瓜とマヨネーズ』という映画の考察記事になります。

 

母性の虚像

他の先進国に比べてに日本の女性の社会進出が遅れているのは、昔から続く男女差別に根付いていることは間違いないとして、子持ち女性等の社会進出を助ける・守る社会制度の不備や不十分さも明らかです。

 

「女はイエで家庭を守る、旦那(男)をたてる」みたいな古い考え方も、まだまだ私達の社会の深い部分に根ざしており根絶なんて程遠い。

 

今でも日本では、美しい女性、母や妻のイメージが「自己犠牲的に尽くす女性」であることを、あらゆる文学やドラマ、女性向けマンガ、歌詞が謳っています。こういった思想が、しっかりと長い時間をかけて様々なメディアを通して私達に刷り込まれているので、その病理性に気がつくのは少しばかり難しいのかもしれません。

 

「自己犠牲的に尽くす女性」自体を避難しているわけではありません、これも一つの人間の性格・生態の種類なので。ただこの「自己犠牲的に尽くす女性」は、他のタイプの女性と比べると自己肯定感がとても低く、尽くし、相手に必要とされることでのみ自分の存在意義を確認できるというやっかいな性質を帯びています。少し言い方を変えるなら「共依存体質」と言うこともできます。

 

このタイプの女性は、自覚しているしていないに関わらず、交際する男性は必ず「ダメンズ」で、また通常の男性も「ダメンズ」にしてしまう能力を持っています。つまり、ダメンズウォーカー&メイカーという特異体質なのです。

 

胸のつまる苦しい恋

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この映画の主要な登場人物は3人と少ないです。

 

  1. ツチダ(主人公の女性)(写真右)
  2. せいいち(恋人のバンドマン)(写真左)
  3. ハギオ(昔惚れていた男・今でも忘れていない)(オダギリジョー)

 

せいいちとツチダは同棲を始めて1年半。同棲のきっかけはたいしたことじゃなく、なんとなく、いつのまにかそうなっていた。胸のつまる苦しい恋とは違って、なんとなくいつのまにかというのはとても楽だったし、情がわくのもすごく簡単なことで、いつのまにか2人は一緒に暮らしていた。

 

ツチダは現在、恋人の「せいいち」と同棲中というシーンから映画は始まります。

 

昔のハギオへの恋で傷ついている自分を救ってくれたせいいち。ハギオの女の一人だった自分、一度中絶までした経験も。それでもまだ、ハギオへの未練は断ち切れていない、きっとまだハギオのことが好き、そんな主人公(映画ではこの心理状態は最初のシーンでは説明されません、マンガのみです)。

 

せいいちはミュージシャンですが今はスランプ中で、生活費などはツチダがバイトして稼いでいる状況。要するに、せいいちはヒモ状態でツチダが養っている構図です。

 

「せいちゃんは働かなくていいから、曲のことだけ考えて、曲を作っていればいいよ!私が働くから任せて!」というような趣旨のセリフが上映開始から30分で2,3回はツチダから発せられたのも印象深いですね。

 

しかしながら、ツチダ自体の稼ぎは良いわけではなく、ライブハウスの店員をしていましたが、貯金なんてあるはずもなく、夜のキャバクラの仕事を始めることに。そして、最終的にはそこで出会った客の一人と愛人契約を結び更に収入を増やします。もちろん内緒でやっていたので、それがバレて関係がギクシャクするのですが、、

 

都合の良い相手でしかないツチダ

そんなギクシャクしている主人公ツチダは偶然にもハギオと遭遇してしまいます。

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過去にひたすら追いかけ、ひたすら尽くし、ひどい目にあったとしても、それでも忘れられない男ですから、再会してしまえば追いかけてしまうものですね。

 

ハギオは、言うまでもないですが女関係にだらしないイケメンのモテる男です。お金を持っているわけではないので、彼に惚れる女の子にお金をもらったりフラフラして生活をしています。女に困ることはないので、飽きれば捨てる、その一人が主人公のツチダと言うわけです。

 

ツチダ:私、一度ハギオの子妊娠したんだよ!堕ろしたけど、、

ハギオ:本当に?俺たちそんなヤッてたっけ?笑 

 

ハギオにとってはツチダなんてセフレの中の一人という扱いですから、どんな風に一緒にいて、どんなセックスをしたかなんてちゃんと覚えているはずがありません。一方で、ツチダはしっかりと覚えています。もちろん既にツチダはハギオの性質(女関係にだらしなく、フラフラでいつかは自分の元を去る)を学んでいるのですが、それでも好きと言う気持ちを抑えることはできません。だから、結局は再会したその日一緒に夜を過ごします。ツチダから誘って。そしてハギオは翌日別れ際に言うのです「オレおまえのこと好きかも。わかんないけど。また電話してよ」と。このブログの読者の皆様であれば言わなくてもわかるかもしれませんが、男はヤるためならどんな嘘もすぐにつきます、もちろん、この「好き」は「またヤリたい」ですし、セフレとしてキープしたいがための一言なのですが、そうだと理解していても、ツチダにとっては嬉しいわけです。

 

その後も何度かハギオとの逢瀬を重ねますが、彼の態度は歴然としており、あくまでツチダはセフレ枠。ツチダが「どうやったらハギオをつなぎとめておくことができるの?」と言うと「気持ち悪いな、、つなぎとめておくとか、、重いよ、、楽しいうちは楽しむ、でいいじゃん?」と。

 

巣立つせいいち

ツチダの水商売でのバイト、愛人の件を機にせいいちはバイトを始めバンド活動の再開も前向きに動き出します。そしてツチダがハギオとの逢瀬から家に帰ると、せいいちから話を持ちかけられます、もちろんせいいちはハギオとツチダの一連の逢瀬については知りませんが。

 

せ:「オレたち、わかれない?」

ツ:「え」

せ:「そのほうがいい。わかれたほうがいいよ」

せ:「オマエに甘えてばっかで、オレこんなんじゃだめだよ。オレに気つかってるオマエみてんのもつらいし」

せ:「オマエさ、子供産んでちゃんとしたダンナがいて、、、その方がいいよ。女なんだからよ」

せ:「もうなんにも無理しなくていいような男見つけろよ」

ツ:「なんで、、こんなふうにしかなれなかったんだろーなぁ、、」

せ:「オマエはなんにも悪くないのになぁ、、ごめん」

せ:「オマエちゃんと幸せになれよなぁ」

 

例の一件からせいいちは変化を見せ始めました。もしかすると、せいいちは、もともとはヒモ体質ではなかったのかもしれませんね、バンドをして自立していた男性だったのかもしれません。ただ、ツチダと出会い一緒になることによって彼女の「共依存」の対象になり、それに巻き込まれる形で、それに甘える形でヒモになってしまった。ほら、よく言うじゃないですか「メンヘラと付き合うと自分もメンヘラになる」って。それと似たようなことなのかもしれません。

 

こうしてツチダのもとを去ったせいいちは、バイトをしつつ自分の足で立ち、バンド活動を再開させます。

 

ツチダはもちろん大号泣です。そりゃ、一人になるんですからね。なんだかんだ、色々あっても家に帰ったらいてくれた人がいなくなるんです、共依存状態だった相手が巣立ってしまったのです。自分の存在意義を見出すための相手が居なくなったのです、自己肯定感を保つことができなくなります。

 

ハギオとの決別

せいいちと別れた後、それでも、ツチダはハギオと会います。せいいちが着ていたパーカーを着てハギオと飲みに行くシーンが映画ではあります。その際、腕にとまった蚊を潰すワンカットがあるのですが、何かのメタファーなのでしょうか。。

 

まあ、そりゃ、そうですよね、会いたくなりますよね。たとえ一時的でも、お金を渡したり、ヤラせれば会ってくれる大好きだった人が近くにいるのですから。ハギオは一貫して「いいじゃん。これでやっとコソコソしなくてすむじゃん」とブレのない態度ですが。。

 

ただ、これはマンガで、物語ですので、ワンクッションおいた後、ツチダはハギオとの決別を決意します。

 

偉いですね、自ら決別を決意するなんて。現実だったら、おそらく多くの人はこの関係を引きずり、その叶わぬ恋に悩み続ける毎日をおくるのでしょうけれど。どうしたらセフレ枠から本命に昇格できるか?なんて悩み続けてググったり相談したり、、身の回りにも実はそういう人がたくさんいるのかもしれません。

 

ツチダはしっかり過去と決別しハギオとの関係を絶ち再スタートを切る、せいいちは自立しバンド活動を再開、ハギオはまた姿をくらます。

 

こうやって、”キレイ”にこの作品は幕を下ろすのでした。

 

共依存と自己肯定感と

先程上でも書いたのですが、あくまでこれは物語です。現実はきっとそんな甘くありません。そんな簡単に共依存体質を変えることなんてできないです。もしこの物語をもっと現実よりのリアリティ溢れる結末にするなら、ツチダはハギオとの関係を継続し、より一層摩耗していく、せいいちとの一件で一時期は夜の仕事をやめていたがハギオとの逢瀬のためにはお金が必要なので夜の仕事を再開する。ハギオはツチダを良い金づると簡単に抱ける相手として手のひらの上で転がし、飽きたり、めんどくさくなってきたらいつもどおり捨てる。捨てられたハギオはまた途方にくれ、きっとそこでまた誰かになぐさめてもらったら、その人と共依存状態になる、というループを繰り返すでしょう。

 

これも「自己犠牲的に尽くす女性」が賞賛された世界に生まれてそれを刷り込まれてしまったのが原因なのでしょうか。救われない世界ですね。

 

ダメンズウォーカーは、いつ救われるのでしょうか。

 

ツチダ自身が気づいていない本質的な彼女の問題には迫らず物語としてのキレイな結末を優先した『南瓜とマヨネーズ』。「依存ー自立」「現実ー虚像(夢)」という4象限で物語を見ていくと、また新たな一面が見れるので、ぜひご覧になっていない方は映画館に足を運ぶか、原作を読んでみてください。女性の方にこそ読んでもらいたい一作です。

 

南瓜とマヨネーズ 分冊版(1) (FEEL COMICS)

南瓜とマヨネーズ 分冊版(1) (FEEL COMICS)

 

 

魚喃キリコ短編集

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